日鉄6600形と同型の南アフリカのアトラン(4−4−2)について
プレ終活として本を整理していると、月刊時代のレイル 誌がでてきました。その中の1979年7月号に高山禮蔵さんが書かれた「ケープ官営鉄道のアトラン」という記事が目に留まりました。もう45年以上前に刊行された雑誌で所蔵されている方も少ないと思いますし、美しい文章で私が要約するのも憚られますので、敢えてそのまま全文引用させていただきます。
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ケープ官営鉄道のアトラン
高山禮蔵
「レイルJ 1月号,『機関車史のうらばなし9アトラン異聞』で寺島京ー氏が取り上げられた, 日本鉄道発注のポールドウィン製2- B-1型テンダー機(国有後の6600形)と全く同一の南アフリカのケープ官営鉄道の機関車について,乏しい資料からではあるが紹介したい.
1971年David & Charles社から出版された,D.F. Holland氏著のSteam Locomotives of the South African Railways vol. 1にこのアトランチック型テンダー機がケープ官営鉄道に導入されたいきさつが述ぺられている.寺島氏は1月号でこれは見込生産されたものか,あるいは注文流れになったものが南アフリカの地に渡ったのかと推測されていたが, どうやらそうではないようである.
1897年ポールドウィンで製造された6輛の2-B-1テンダー機が,4th Class No.295~300として内陸部のキンパリー地区に配置された.当時英国のメーカーで製造を予定していた6輛の機関車は,工場のストライキで早急に納入する事が不可能の状態であった.加えて南アフリカ向けの船賃の値上実施が目前に迫っていた.何とか値上前に機関車を入手したい鉄道当局は,代替の機関車を短期間で製造,納入してくれるメーカーが無いものかと調ぺたところ,米国のポールドウィン社がちょうど日本鉄道から受註し製造に着手していた前記2-B-1テンダー機なら軸間も同一であり,60日の短期日で追加生産に応じる事がわかり,「そちらさんと同じものを六つ,急き前で」と発注,無事に出来上り,船積されて大西洋を北から南へ,赤道を越えてケープタウンの港に陸上げされた.
従来このケープ官営鉄道は英国の植民地でもあり,もっばら英国のメーカーで製造された2-B-0,あ るいは2-C-0のテンダー機が主力でキャプの狭い英本国の機関車の仕様をそのまま受け入れて使用して来た. しかしこの米国製の機関車は広いキャプ, 機関手はもとより火夫にもゆったりしたシートが与えられ,広い火室に良質炭をタップリ投炭しておけば蒸気の上りも良く,保守の手間も少<, engine crewsつまり乗務員には好評で“Hatrack"(帽子掛け)のニックネームで親しまれていた.やはり風土の酷しい米大陸と同じような,荒涼とした砂漠や草原を走る南アの機関車としては英国仕様より米国仕様の方が適していたのであろう.
鉄道当局もこの急場しのぎの「アトランチック」が働き出してから宗旨変えをしたのか,以後発註の機関車は英国のメーカーで製造するものについても米国風の広いキャプ付のものを要求し,写真や図面を見ただけでは一見米国製と云ったデザインのものが製造されるようになった.要目表のメーカー名,皮見て. このスタイルでNeilson製.Kitson製か.と驚くようなものが製造されるようになった.そして英国メーカーオンリーの発註が米国のメーカーにも発註されるようになり,後年にはドイツの製品も数多く入るようになった.
さて話は戻って日本鉄道の2-B-1テンダー機の製番が15175~15198であるが, このケープ官営鉄道のそれは15338~15343であり. 140番の飛ぴで付番されているのは.ボールドウィンのような各国に広く機関車を供給していたメーカーにとっては. 日鉄分の製造開始後.追うようにして追加生産に入ったと云えよう. 日鉄のそれらは1925年全部廃車となったが.ケープの半ダースは南アフリカ連邦鉄道ば統合され.1931年日本へ渡った2ダースの兄弟に遅れること6年でスクラップと化した.
付記 前述1890年代の終末期に英国の機関車メーカーに起ったストライキによって.各国への輸出の停滞が生じた.それに代って米国製機関車の驚異的な売込と進出が当時我国や他の鉄道後進国.つまり自国内での実質的な機関車製造能力の無い各国に与えた影響.現象についての考察をどなたかまとめていただけないものでしょうか.
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この記事を読んだことは私もすっかり忘れていて、新鮮な印象を受けました。
また南アの機関車は後年、大きなキャブに改造されたものが多いのは知っていましたが、これがこのアトランの導入がきっかけだとは思いませんでした。6C形などは、原形より改造後のスタイルの方が私は好きです。
1890年台の英国の機関車製造業は黄金時代だと思っていたのですが、従来のオーダーメイド手法で製造されていた英国製機関車に対して 規格化された工業製品として生産される米国製やドイツ製機関車に押されて衰退期に入っていたのは、「海を渡る機関車」を読んで知っていました。しかし英国の機関車メーカーで起こった大規模なストライキによってそれが加速されたというのは知りませんでした。1903年にダブス、ニールスン、シャープスチューアートなどの大手メーカーが合併してNBL( North British Locomotive ) になったのもそういう時代の流れだったのですね。
最後に高山さんが書かれている 英の機関車メーカーのストライキが、日本や他の鉄道後進国に与えた影響についての雑誌記事や論文 もし書かれているのをご存じの方あれば教えていただけないでしょうか?
H.L.Broadbelt コレクションより
☆5/25追加
英国では1890年に労働組合法が成立して労働組合運動が合法化されました。1893年からの炭鉱ストライキでは30万人以上の鉱山労働者が参加する大規模なものだったようです。そのころ機関車労働工場でもストライキがおきたようです。
今回の高山さんの記事を読むと、このストライキが南アフリカの機関車購入方針を変えて、その後の南アフリカの機関車のキャブのスタイルを変えてしまったというのは興味深い話だと思います。
植民地は宗主国にとっては、割高でも自国製品を販売できる都合のよい場所だったようです。ひとむかし前には日本の財閥系企業では、購入品は価格や性能にかかわらず 自社の企業グループの商品購入=系列内取引が原則だったのと同じような状況と思います。



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